“ラットフィンク”の生みの親”エド・ロス”を3分で知る(1/3)【ビルダー時代編】

「ラットフィンク」というキャラクターは、アメ車好きなら知らない人間はいないといっていいほど有名なネズミである。

1960年代のアメリカの不良少年に愛されたこのキャラクターを生み出したのは、ローブロー・アート界の重鎮、「エド”ビックダディー”ロス」である。
残念なことに2001年の4月4日に他界してしまった彼に心から冥福を祈りつつ、その偉大な功績について3編に渡って振り返ってみたいと思う。

エド・ロスの幼少期

エドは1932年3月4日、アメリカはビバリーヒルズのドイツ人の家に生まれた。下にゴードンという弟がおり、家庭ではドイツ語を公用語としていたため、学校で英語を覚えながら育った。幼い頃からエドは絵が好きで、いつも飛行機やクルマ、モンスターなどの絵を描いていたという。

父のヘンリーは家具職人だったため、エドはその作業場で木材から独創的な創作物を作る方法を学んでいった。

12歳で初めてクルマを運転したとエドは、14歳のとき始めての自分のクルマ(’33フォード・クーペ)を手に入れた。そして、彼の周りの友達がそうであったように、彼もまたガレージで愛車のチューンしてはレースやクルージングを楽しんでいた。

青年期から父親になるまで

1949年、高校を卒業したエドは、クルマの知識を高めるため大学に進み工学を専攻した。大学での勉強は無難にこなしたが、大学での勉強はそこまで彼のその後に影響を与えてはいないという。

1951年、エドは空軍に入隊し地図の作り方を覚えた後、デンバーで爆撃を学んだ。このころ彼は副業として、なぜか床屋をはじめている。

その後しばらくの間アフリカに配属され、さらにサウスカロライナに異動した後1955年退役している。彼は軍隊生活の間、数台のクルマを所有しており、また結婚して5人の男の子を授かっている。

退役後、アメリカの百貨店”シアーズ”でパートタイムで働き、仕事を終えて帰宅するとエドは車にピンストライプを描いた。こうした生活を続けていたが、子供達が成長するにつれ家計は逼迫され、しかたなくフルタイムで働くようになった。しかし、「自分の思い描く理想のクルマに乗りたい!」というエドの理想は、誰にも止められなかった。

彼の理想は常人の思い描く範疇をはるかに超えており、そのため彼はガレージにある簡単な工具と廃車置場にあるスクラップパーツを使って、世界でたった1台しかない、自分だけの理想のクルマを創ることに挑戦しはじめた。

“OUTLAW”の完成

"ラットフィンク"の生みの親"エド・ロス"を3分で知る(1/3)【ビルダー時代編】

彼が自宅のガレージで作ったホッドロッドの第一号。 エドの夢見たクルマは漫画の世界にしか存在しないような、独創的なデザインだった。その独創的な流線型のボディーラインを実現するために、試行錯誤を繰り返した結果、グラスファイバーにたどり着いた。
当時の自動車のボディーといえばスチール製がメインだったが、資金と設備の乏しいエドにとっては、スチールに比べて加工がし易く価格も安いグラスファイバーを用いるということで全てが解消された。

制限のある中でエドの出した答えこそが、従来の自動車製造における定説を打ち破る革命であった。

このクルマは当初”Little Jewel”と呼ばれていたが、その後”OUTLAW”と名付けられた。

いかがだっただろうか。

エドは自らの夢を体現することと同時に、情熱+アイデア+最低限の整備知識があれば、誰でもで理想のクルマが作れることを証明した。その後、アメリカはもとより世界中で、彼のような夢を追いかけるビルダーが誕生したことは言うまでもない。

次回は、ラットフィンクの誕生から”BIG DADDY”と呼ばれるようになるまでを述べた『“ラットフィンク”の生みの親”エド・ロス”を3分で知る(2/3)【ラットフィンク編】』、『“ラットフィンク”の生みの親”エド・ロス”を3分で知る(3/3)【カスタムカルチャー編】』に続けたいと思う。

画像 – Flickr : Steven LaurieChad Horwedel

forRide編集部

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