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現在の社会では昔ほど白眼視されなくなった和彫り。和彫りの歴史や伝統なども含め海外での評価もとても高く、アートとして認識している外国人も沢山いる。
しかし、圧倒的な存在感があって”恐怖”を与えてしまうのも確かな事実。しかし、そのような認識もあった方が、威勢のあり、本来の日本男児のあるべき姿の象徴でもあると考えている方も多い。
見る人の視点で、様々な価値観を持つ和彫りだからこそ、今回は、そんな”和彫り”の世界を歴史から紐解いていきたい。
和彫りの起源
日本の入れ墨は、縄文時代の紀元前1万年ごろまでさかのぼると考えられている。記録としては「魏志倭人伝」の中で、卑弥呼がおさめていた邪馬台国の住人たちが刺青を行っていたと見られる記述が最古のものとなっているようだ。
和彫りが繁栄した江戸時代
江戸時代の入れ墨は、主に刑罰に使われており、今でいう和彫りとは違っていた。
この入れ墨はその地域によって墨を彫られる場所や紋様が違い、一部地域では「おでこに墨を入れる刑」があり、額に入墨が入れられていた。
一般大衆が想像する装飾的な日本の入れ墨を繁栄させたのが、江戸の火消し衆である。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた時代で、当時の江戸の町並みは木材建築の小さな長屋が集中し、放火も多発したことから火災が瞬く間に燃え広がり大火災にるこも多々あった時代。
そんな頻発している火災を命懸けで鎮火した”粋”な江戸っ子たちが火消し衆。彼らは火災で自分自身の顔が焼けて死んでしまっても自分達の存在を識別させるために、体に刺青をこぞって入れ始めました。
図柄は、水滸伝に登場する英雄や、龍、虎などの図柄を好んで入れたとされている。
明治に向けて弾圧される刺青文化
その後、明治時代に向けては反社会的な存在と認識されて「刺青禁止令」が発布され、刺青を廃絶しようとする風潮が色濃くなっていったわけだが、やはり、”粋”で血気盛んな当時のアウトローたちの間で刺青の文化が廃ることはなかった。
そのまま第二次世界大戦後の、占領軍が駐屯していた日本の市場で用心棒の役割を担った「渡世人」に、この刺青文化は継承されていく。
歴史を辿りながら和彫りの世界を紐解いてきたが、やはりいつの時代も和彫りはアウトローたちの象徴(シンボル)として存在していたようだ。この継承されてきた歴史こそが、現在でも圧倒的な存在感を示のだと考えている。
昨今は、当時に比らべれば刺青を彫る人も増え、少しずつ社会的にも認知されてきた。
筆者の身体にも刻まれているわけだが、しかし、和彫りは和彫りのままで完璧に良しとされず、マイノリティーな存在のままでも良いのではないかとも考えている。
人それぞれ観点が異なり、今でもセンシティブな問題であると思うが、あなたは和彫りに対してどんな価値観をお持ちだろうか。