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“ラットフィンク”の生みの親”エド・ロス”を3分で知る(3/3)【カスタムカルチャー編】

“ラットフィンク”の生みの親”エド・ロス”を3分で知る(3/3)【カスタムカルチャー編】

前々回の『“ラットフィンク”の生みの親”エド・ロス”を3分で知る(1/3)【ビルダー時代編】』から、前回の『“ラットフィンク”の生みの親”エド・ロス”を3分で知る(2/3)【ラットフィンク編】』へと続き、今回はバイクへの興味から晩年までを振り返ってみたいと思う。

 

エドの興味はクルマからバイクへ

“ラットフィンク”の生みの親”エド・ロス”を3分で知る(3/3)【カスタムカルチャー編】

この頃になると、彼の興味はクルマからバイクへと移り、チョッパーに跨りバイカーたちともつるみ始めた。

バイクへの情熱も生半可なものではなく、流行していたチョッパーなどを扱ったカスタムバイクの専門誌「STREET CHOPPER」を創刊したほどである。

やがてヘルズエンジェルズのメンバーと深く関わるようになり、 Revell社は彼に不安を抱くようになり、ついに1967年に彼との契約を打ち切った。

 

エドは1973年に、LAタイムズの記者に対して「自分自身の事は自分が一番よくわかっている。 私は変人だ。そして子供のままずっと成長していないんだ。」と語っている。

 

1974年、彼はモルモン教会に信仰を求め、それまでの社会に対するニヒリズムのようなアンチテーゼに近いライフスタイルを捨てることを決意した。

しかし、あくまでもライフスタイルの話で、カスタムに対する情熱は決して変わっていなかった。

その証拠に、1997年、AP通信の取材に対してエドは「私のクルマに対する情熱はもはや中毒だ。」と語っている。

 

エドの作品は芸術として認知される

1996年9月、カリフォルニア州立オークランド博物館にて、「Hot Rods and Customs – The Men and Machines of California’s Car Culture」
というイベントが開かれた。この時エドの製作した”BEATNIK BANDIT”などが多数展示された。

これにより、エドの創ったカスタムカーが、”芸術・アート”として認められた証拠でもある。

このときオークランド博物館の館長は、「エド・ロス氏の創り出すカスタムカーはサウスカリフォルニアの文化に対して多大なる影響を与えた。」と語っている。

 

また、ロサンゼルスカウンティ美術館でも、「Made in California : Art, Image and Identity, 1900-2000」というイベントに彼の作品が出展され、”20世紀を代表するアート”として紹介された。

 

エドがクルマのカスタムを通して、芸術としての価値を付与し認知させたことによる功績は計り知れない。こうしてエドの創造した”カスタムカルチャー”は、低俗で下品なモノから、モダン・アートとしての評価を受けた。

数々の功績を残しながらも、根底は一人のカスタムカージャンキーであったエドは、晩年もカーショーに出向いては、気さくにファンと会話をしていたという。

 

“ラットフィンク”の生みの親”エド・ロス”を3分で知る(3/3)【カスタムカルチャー編】

そして、2001年4月4日、エド”ビック・ダディー”ロスは心臓発作により突然この世を去った。享年69歳だった。

 

いかがだっただろうか。

現在の日本のカスタム・シーンはもとより、暴走族文化であっても、元をたどれば必ず影響を受けているといっても過言ではないくらい偉大な人物なのである。

ビッグダディーが我々に教えてくれた”好奇心”と”探求力”は、現代の人々が”忙しさ”の中でおざなりにしてしまっている、一番大切な精神なのではないだろうか。

 

画像 – Flickr : ATOMIC Hot LinksNick Ares

Writer: forRide編集部

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